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 子どものときもそうだったかもしれないけれど、人間は優先順位の上位以外のほぼすべてを省略しながら生きています。なにを省略して、なにを省略しないのか、それが人生だと言い切ってしまってもいいかもしれません。別の表現をすれば、それは「潔さ」である。

 私の人生は、私の「潔さ」と「潔くなさ」で構成されています。スパッと割り切ってきたことといまだに自縛していること。あるいは、諦めてきたこととまだ追いかけているもの。

 小説を書くというのは、誰かの代わりの潔さであり、誰かの代わりの潔くなさなんだと思います。300ページのなかで、ガラッと省略したり、ガッツリ書き込んだり。主人公が省けないものとか、周りの登場人物が省けるものとか。

 先日、すごく久しぶりに履歴書が必要になって、手書きで作るだけの労力を割くことができなかった。タウンワークアプリの「レジュメ」で生成して、しかも結局、納得いかずに出せなかった。すごくくだらなかった。

 それと同時に、それが私の人生の省略であり、潔さなのかもしれないと思いました。ただのものぐさだと言われればそれまでですが、省いて、サボって、流して、割り切って、諦めて、蹴っ飛ばした先にも、やはり人生というのは存在しているものなんですね。それはそれでいつもながらにおそろしいことです。

 私はこれを、スカイツリーのソラマチにあるスターバックスコーヒー店内の中央テーブルで書いているのですが、目の前には、手書きの履歴書をジェットストリームで書いている女の子、その隣にはLavieの高そうなラップトップとAirpod、G-Shockをつけている男子大学生風情の彼と、ひとつ挟んで母性看護学について分厚い専門的なテキストで学んでいる女性がいて、その隣には持ち物を綺麗に並べている四角四面な性格のコードを書いているフリーランスエンジニア風情の男性がいて、その向かいにはTOEICのListening&Readingテキストを必死に解いているサラリーマン男性がいます。

 私を含めて、みんな何かを省略している真っ最中で、同時に何かを省けずにいる真っ最中なのです。それぞれ別々に潔くて、それぞれ別々に潔くない。

 小説家という私の仕事というのは、それぞれの省略と非省略について丁寧に書き上げることなのかもしれないと思いました。さらに言えば、私は他人の省略と非省略の物語を省略しないということなのかもしれません。思いつきですが。

 Carry onなんていうと安く響くかもしれませんが、それぞれの選んだ道をやっていくしかないのだなと、じぶん自身の仕事に、何度も理解させられます。堂々と手放しながら、堂々と諦めきれないじぶんでいられたらいいなと思いました。