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 辞書を読もう、もっと言えば、辞書を暗記しよう、というプロジェクトです。プロジェクトといっても、おのおのが、おのおのに必要な形でやることになるので、あまり一体感はないかもしれません。

 ですが、とにかくボキャブラリー・ビルディングです。語彙を鍛えなければ、歯が立たないのです。

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一生いらないと思っていた単語との再会

 先日、アメリカ人の動画を視聴していたら、「ビルド・アンド・セット・ア・スードゥ・トラップタワー」と聞こえてきました。“(I’m gonna)build and set a pseudo trap-tower”(トラップタワーもどきを作って仕掛けよう)ということです。

 この「疑似・もどき」という意味のpseudosúːdoʊ(Ame)s(j)úːdəʊ(Bri)]ですが、受験期の記憶にあまり残らなかったようで、忘れていました。そのときは「一生いらん」と勝手に思い込んでいたのですね。まさかこんなところでこんな風に出会うとは思いもしませんでした。

 もちろん当時はそれが正しい判断だったのかもしれませんが、翻訳者となってからは、正しくない判断に変わります。当たりまえのことかもしれませんが、「必要な語彙the words you need to know」という概念は立場によって変わります。

 トラベルするのに必要な語彙数、絵本を楽しむ語彙数、難関大学受験の語彙数、新聞や雑誌の語彙数、文芸翻訳の語彙数、それはさまざまです。

 じぶんの立場によって更新すべき「天井の位置」を、私は受験のあとに見失いました。東京大学駒場キャンパスのカフェで友人に言われたことがとても衝撃的だったのを憶えております――「この大学に入るようなひとでも入ったあと英語の勉強はやめてしまう」。

 燃え尽き症候群の場合もあるかもしれないけれど、おそらくもっとちがう原因、つまり「これまでは教材が天井を制定してくれていた」というところから来る混乱ではないかと存じます。

まずは教材の制定に身を委ねる

 もちろんやっているひとは、“IELTS”(International English Language TestingS)とか、“TOEFL”(Test Of English as a Foreign Language)とかのために英語の勉強をやっているでしょう。

 大学受験ほどではありませんが、すくなからず教材はあります。ただ、そこで増える語彙(新語)はハッキリ申しあげて多くありません。たとえば王道の『IELTS実践英単語3500』『IELTS必須英単語4400』や『TOEFLテスト英単語3800』などを見てわかるとおり、語彙は5,000弱、それぐらいあれば十分なのです。

 参考までに『キクタンadvanced』は6,000語です。英検で言えば準二級ほど。英検一級は14,000語と言われておりますから、どれほどなのかなんとなくわかるかと思います。アルクの「ボキャビルマラソン・パワーアップコース」は12,000語水準で作られている教材で、安くおさえたいひとはおなじアルクの『究極の英単語』も12,000語の上位語です。英検一級あたりを目指しているかたがたに人気だそうです。

 ちゃんと把握さえしていれば、なんとか12,000語レベルまでは教材があります。それでは、この先はどういたしますか。たとえば「45,000語」以上を収録している英語辞典の序文にはこんなことが記されております。

“Random House Webster’s Intermediate English Dictionary” is intended for learners of English as a foreign language. This dictionary covers the most common words and phrases in the English language.
「ランダムハウスウェブスター現代英英辞典」は外国語としての英語を学習するひと向けの辞書であり、知っておくべき一般的な語句を網羅しています。
――青砥みつ・訳

 12,000語を超えた先に、教材らしい教材はないのです。だからこそ、もしそこさえ超えていかなければならないひとがいるとしたら、「最後の教材」は辞書ということになるでしょう。

翻訳者は辞書を教材に!

 母国語として英語を話すひとたちの平均は(派生語も含めて)だいたい60,000語程度だと言われており、なるほど“the most common”というのはその通りなのかもしれません。知識人と呼ばれるひとたちは、さらにこの倍の120,000語(!)も理解しているそうです。

 もちろん「理解している語」と「運用できる語」はそれぞれ別ですが、そういうひとたちからすれば、この英語辞書だって退屈かもしれません。翻訳者になるということは、そういう知識人の書いた本を訳さねばならなくなるかもしれません。

 日本の英語文法教育は「翻訳」への道となっているという指摘をしたのは藤井光さん(『文芸翻訳入門』)ですが、「大学受験」や「TOEIC990」のようなところで英語学習がストップしているのは、学習参考書の優秀で豊富な教材が「パルマコン(毒であり薬でもあるもの)*1」として、その二重性を発揮しているからかもしれません。

 それでも第二外国語の学習なんて教材と共に歩んでいくことが大前提なのだから、それを言ってもしかたありません。だからこそ辞書を教材にせよ、というのが、アンチバベルの塔の美学だったかと思われます。

一生モノの自己研鑽

 受験生なら単語帳、通訳者・翻訳者なら辞書、そうやって「たどり着く先」を作ることによって、必然的に「そこまでの道のり」ができあがるものです。

 ディクショナリーの道のうえで、私たちは今日も語彙を増やし、語彙を磨いてゆきます。スポーツなら30歳になるころに終わってしまう自己研鑽ですが、翻訳者は一生モノです。ゆっくり辞書をめくってゆきましょう。

 辞書を読みたいとか、さすがに辞書はやらないけど新語を習得したいとか、いろいろな単語の解説を聞きたいとか、あわよくばなんかの弾みで覚えたいというかたたちに向けて、細々しくボキャブラリーを取りあげてゆくつもりです。

 高校三年生の春、「accomplishment」も「recommendation」も「employment」も「mention」も「foundation」も「passage」もわからなかった、理解できなかった、運用できなかった不勉強な私が、いまは「septuagenarian」も「renunciation」も「havoc」も「plethora」も「utensil」も「prerequisite」も「juxtapose」も理解できています(運用はできませんが)。

 その進歩はとても愉快です。じぶんもやりゃあできるんだな、と思えてきます。語学には、そういった自己肯定的な側面もあるでしょう。

 

*1:
魔術を意味するギリシア語「φαρμακεια(パルマケイア: pharmakeia)」のこと。魔術的な意味から医学的な意味に派生し、薬/薬局を意味する「pharmacy」のもととなります。「パルマコン(ファルマコン)」が薬と毒の二重性を含むようになった経緯などは、ディエゴ・グラシア・ギレン=著、寺澤孝明さん=訳の『薬の文化誌』(第二章)に詳しいです。リンク先で閲覧できます。哲学者デリダさんの「エクリチュール論」にもよくメタファーとして登場します(これについては鈴木智久さんが詳しいです)。