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 雑なテレビ語りになりますが、考えていることをメモランダム的に残しておきます。

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テレビを真に受ける

 テレビというのは、小説やマンガとおなじように、フィクションの世界でした。つまり「テレビを真に受ける」ということが珍しかったわけですが、いまではテレビが妙な位置に立たされております。

 テレビを真に受けるひとたちのことを考慮して、大げさなことができなくなってきたのですね。大げさというのはキャラクタライズのことで、たとえば先日は、石橋貴明さん(とんねるず)が「保毛尾田保毛男」という男性同性愛者のネタをテレビで披露したことが問題視されました。

多元的無知と芸能人パワー

 ここには単純ではない問題が潜んでいるように思います。

 テレビ――特にバラエティ番組――が〈真実〉を語っていない、なんてことは、ほとんどだれもがわかることです。それでも多元的無知pluralistic ignoranceといって、”じぶんはそう思わないのに、世の中の多数のひとはそう思っているだろう”という予断が働きます。裸の王様と言えばわかりやすいかもしれませんが、じぶんのなかでの拒絶とみんなのなかでの拒絶に距離を感じてしまうのです。

 ①バラエティ番組なんて虚構だよね、という合意がとれていたとします。しかし、②芸能人には影響力があるよね、という合意もとれていると考えるべきでしょう。ここにねじれが生じていて、バラエティ番組なんてウソだけど、出演している人気芸能人には現実的な影響力がある、という認識ができます。

 テレビのフィクショナルな部分というのは、〈芸能人の影響力〉という概念によって削ぎ落とされています――あるいは〈インフルエンサー〉という概念かもしれません。なんにせよ、「ホント」と「ウソ」には明確な境界線などなく、テレビがウソであった時代は終わったのかもしれません。

江頭2:50さんについて

 江頭2:50さんのようなひとは、テレビの外にはあまりいません。彼の〈ありえない〉動きや発想は、善悪や是非を問わずテレビ的だと思います。この時代、江頭2:50さんが、あの(公然わいせつ罪と隣合わせの)芸風を貫くためには「影響力」をもってはいけないのです。むしろ、江頭2:50さんに影響力なんてないよね、という合意を取り続けないと、どんどんテレビ的なことができなくなってゆきます。

 落ち目にきているじぶんの好きなものを盛り上げるための手段が、あの長年の裸芸なのだとしたら――それが江頭2:50さんにとって〈ちょうどいい〉ところなのだとしたら――法的なこと、道徳的なこと、一般人による断罪などをひとまず置いて、それはひとまず認めていかなければならないのではないかと思います。

 もちろん「公共って意味がわかってるのか」とか「公然わいせつ罪ってわかる」とか、いろいろな正論もありますし、不快感をいだくひとの気持ちだって尊重されるべきでしょう。それをわかったうえで、彼が守ろうとしているテレビのフィクショナルな部分も尊重していけたらいいなと思いました。