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 仕事と家の往復。家を出た瞬間から帰りたい。駅前のコンビニでも、改札口でも、プラットフォームでも、乗り換え駅でも、会社のエレベーターでも、ロッカールームでも、デスクでも、業務中でも、昼休みでも、いつも早く家に帰りたかった。常にそのことばかり考えていて、疲弊していました。楽しくもなくなるし、休みも休めない。

 ひとはじぶんの表現したいことをあいまいにしか掴めていないとき、適当なことばを見つけられずに窮余のことばに甘んじるものです。

 「早く家に帰りたい」は、そのひとつだと思います。会社員時代、私もよく早く帰りたいと考えていました。

 フリーランスになって、仕事もいただけるようになって、落ち着いて「早く家に帰りたい」が表現していたことはなんだろうと考えてみると、そこにはふだんのじぶんが目を背けてきたレベルの感情がありました。

 自己嫌悪、自己軽蔑、自己非難――まとめて「自己復讐心」とでも呼びましょうか。目を背けてきました。そしてその自己復讐心をささえているのは、「一秒も無駄にしてはいけない」という強迫観念だったのです。

 初期のとがっていたBUMP OF CHICKENさんの楽曲「ガラスのブルース」(1996年)の歌詞の影響が大きいのかなと思います。それは良いとか悪いとかではなく、彼の書く歌詞の湯船に肩まで浸かってゆっくり100秒かぞえるような中学生だったので、ただただ影響されたんですね。

 もちろん、冷静になって聴いてみると、あの楽曲で歌われていた「生まれてきたことに意味があるのさ 一秒も無駄にしてはいけないよ」というのは、数値で対象化できる時間や時間に対する効果性のことではないとわかります。

 どちらかというと「エタってはいけないよ」という限定性と進行性の話なんだろうと思います。人生はエタらずに進むということなんだ、というサンテグジュペリ的なメッセージだと受け取れます。いまでは。

 つまり、「一秒も無駄にしてはいけない」というアイデアは、人生を秒給で換算して毎秒を損なわないように生きるという意味でありません。

 生命をわざわざ時間に換算して「時間を大切にすることは生命を大切にすること、その逆として時間を大切にしないことは生命を大切にしないこと」なんてアイデアこそ、生命のことを安く考えすぎだと思います。

 ただ、時給という概念にリアリティを感じる環境では、どうしても生命と時間が置き換え可能だと思えてきてしまうものです。そして時給を無駄にすることは、生命を無駄にすることに感じます。

 自己復讐心というのは、時給環境で生命=時間を無駄にしているじぶんへの罪悪感だとひとまず言わせてください。

 そんなじぶんを「叱りたい」という欲求が、抽象的な〈早く家に帰りたい〉という気分にアクセスしているのかなと思います。時給環境で生命を無駄にしているじぶんと、それを叱りたいじぶんの内的抗争です。

 〈早く家に帰りたい〉は不真面目にしか在ることできない自己の表現で、非常に根源的な気分だと思います。

 そうだとして、じゃあ、どうすればいいのか。

 端的に言えば「自己復讐心を完了すること」でしょう。それは生命を秒単位で重んじることのできない根源的に不真面目なじぶんを原罪よろしく認許することでもあるし、その時給環境での作業がじぶんの人生においてどんな意味を持っているのか想像してみることでもあります。

 生命=時間というアイデアをやめて、開き直ってしまえばけっこう楽です。生命は生命、時間は時間、それだけなんです、ほんとうのところは。いちいち天秤にかけて計量しなくていいんです。

 つまらない時給作業も、実は未来にオーバーラップします。ジョブズ的に言えば、コネクティング・ザ・ドッツですね。

 充実感というのは、つまらない〈いま〉が未来にオーバーラップしたりオーバーランしたりするのを感じることだと思います。端的に言えば〈いま〉に推進力を与える行動を意識することです。

 サンテグジュペリは、『夜間飛行(Vol de nuit)』のなかで、こう言いました。

Dans la vie il n’y a pas de solutions; il y a des forces en marche: il faut les créer et les solutions suivent.
解決というのは、人生に属していない。あるのは、ただ前に進んでいく力だけである。その力をつくることで、解決は後からついてくるものだ。

 「ただ進んでいく力」(des forces en marche/デ・フォルス・オン・マルシェ)を生み出すにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、進行をとめている未完了な感情を完了させることだと思います。

 私の場合は、自己復讐心(自己嫌悪、自己軽蔑、自己非難)でした。主因は、生命と時間を置換してしまえるアイデアです。それらを完了したり解除したりすれば、前に進むことができるのかなと思います。

 〈早く家に帰りたい〉ということばの抽象度に気づいたとき、そのことばが「まだ言えていない具体的な気持ち」を聴き取ることが大事です。その未表現の部分に、じぶんの苦しみを理解するヒントがあります。

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画像:Suhyeon Choi