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 第11回小学館ライトノベル大賞・ガガガ大賞受賞作品『平浦ファミリズム』を拝読したので、感想文(書評)を書いてゆこうと思います。

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平浦ファミリズムのあらすじ

 母を亡くした五年後の話です。

 生前の母は、ベンチャー企業の社長を務めており、陽気な性格で社員や家族を引っ張っていました。残されたみんなは、母から受け継いだものやかけられたことば、思い出などを貴重に扱いながらおだやかな生活を送っています。

 その平浦家には、母親譲りの技術でアプリ開発をして稼いでいる高校生の一慶、トランスジェンダーでキャバクラ勤めの姉、ひきこもりのオタクな妹、他人とのやりとりが苦手な父がいました。一慶は、母が築いてきた「家庭・家族」を愛しながら、それ以外のひとをほとんど見下して邪魔者として扱っており、学校も退屈で遅刻早退を繰り返し、気にかけてくれる友人や大人の「裏=虚構性」をいちいち措定しながら、歩み寄らないことを選択し続けます。

 「家族だけいればいい」――その日常を潔しとしながら暮らしていたある日……という話です。

他者を否定しながらこっそり他者に要求していたもの

 レヴィナスという哲学者の肌感覚では、じぶんが死ぬことよりも、最愛のひとが死ぬほうが辛く悲しいそうです。主人公の一慶にとって、最愛のひとは既に亡くなっています。一慶は、おそらくその出来事のショックから立ち直っていません。それは一慶だけではなく、父、姉、妹、郡司らも。そして、みんな、そのことにうすうす気づきながらも、おたがいの存在を祝福することで晦ませているのです。

 だから、この物語は、祝福しやすい相手を祝福することに没頭してしまっている高校生が、他者からの語り直しを受け取るために、一度、その祝福の形をした先延ばしをやめなければならない、という話なのです。

 この物語が停滞しているように感じるのは、一慶自身が母を誤読していることに気づいていない、というところに原因あります。千条らの正義感を正論で迎え撃ちながら、一方で、じぶんの誤読的な信条は「家族」のなかに晦ましているのです。妹が「学校」というものを幻想化させている描写がありますが、一慶は一慶で「息子」の幻想を見ています。

 あれほど他人にうんざりしている一慶が、ことアプリ開発&マーケティングにおいてはよろこんで「ひと」のことを考えるのは、そこに「技術を受け継いだ息子」の幻想的な、きらびやかなイメージが潜んでいるからでしょう。

母というメッセージ自体の負い目

 その幻想を支える「開発室」に、じぶんと似ていると言われた後輩ちゃんを招き、一緒にアプリ開発をしながら、むかし母に言われたことをふたたび言われます。母を介して他者に開いてゆく瞬間です。

 母のメッセージ(あるいは母というメッセージ自体の負い目)を理解するために、他者という〈語り直し retelling〉が必要だということに気づき始めます。その再生ボタンを押すためには、他人とよろしくやらねばならないのです。

 この直観にどうケリをつけるかが一慶にとっての問題になります。

 一慶にとっての〈他者〉概念は、全体を通して変化しました。ただ、結局のところは、一慶にとっての他者は、母を理解するための他者でしかないのです。

 作者の遍柳一さんは、そうとう着地に悩んだのではないでしょうか。というか、悩んだ痕跡がいくつかあります。事件後いきなり〈他者〉全開でいくのか(他者全開になるような大事件にするか)、一慶らしさを残すのか(元通りになる予定の小規模な事件にするか)、そしてその選択を読者にどう読んでもらうか、ここはきわどい選択をしたと思います。

 そのへんはとても巧妙で、そもそもラストで「母の敵」と闘うわけですから、この事件をどうこうしようと一慶は「母というメッセージ自体の負い目」と向き合うしかありません。ですが、母の敵は「母が面接をして選んだ信頼できる身内」なので、敵でもあり身内でもあるわけです。その二面性(一筋縄ではいかない世界)が一慶を大人にさせます。

 つまり、「許してくれない他人は無視していれば許される必要がないから許されたも同然」という幼い行動原理を修正するようになります。他者に許してもらうことは、一慶にとって重要なことであるとうっすら自覚し始めるのです。ほんとうに聞きたいことばというのは――たとえば最愛のひとのメッセージというのは――、じぶんでは言えず、他人に言ってもらうしかない、という不条理な世界の原理にじぶんを部分的に適応させ、亡き母のことばを聞こうとするのです。そのために他者を受け容れてみる、そこから始めなければならないのです。

まとめ

 ほかのかたの感想を拝読していたら「二巻分を一巻でやったような」とありましたが、私からすると逆です。一慶とレヴィナスがつながりそうなところで話が終わった印象でした。おそらく埋め込みたかった哲学的なテーマがすべて描ききれなかったのではないかと存じます。

 なんにんかのかたがおっしゃっている「最後の事件の唐突さ」というのは、まあ、おそらく千条を成長させすぎてしまったところが大きいかなと思いました。むしろ脚本や小道具的に少々違和感があったとしても、余裕で最後まで読めるテーマ性と端正な文章に驚かされます。

 おなじ「哲学作家」として、いつか対談してみたいです。

 


画像:Amazon