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 ブレッソンは、どんな写真にも決定的瞬間(L’instant décisif)がある、と語りました(正確には「Il n’y a rien dans ce monde qui n’ait un moment decisif.」です)

 あたりまえだけど見失いがちなことです。写真の単位というのは、1枚です。写真という1枚単位を理解すれば、構図の神とよばれたブレッソンでさえ、ときどきはトリミングをしていたことに違和感もなくなります。

 写真はシンプルです。シンプルだからこそ、そこにいろいろなものを詰め込めるし、いろいろなことに利用できます。内側を重視することも、外側を重視することもできます。

 加工論争において主要な立場は、詰め込む(ingoing)と利用する(outgoing)にわかれている、と分析させてください。そしてその基準に結論がくっつきます。つまり「だから加工はよくない」と「だから加工はよい」です。

 ひとまずまとめます。

(1)写真は想いを詰め込むものなので、加工はよくない。(ingoing,加工否定派)
(2)写真は真実を広めるものなので、加工はよくない。(outgoing,加工否定派)
(3)写真は自分の世界(観)を詰め込むものなので、加工はよい。(ingoing,加工肯定派)
(4)写真は見てもらう(感動してもらう・幸せになってもらう)ものなので、加工はよい。(outgoing,加工肯定派)

 「#ファインダー越しの私の世界」は、この分けかたで言うと(3-4)あたりでしょうか。世界観のためのファインダーであり、なおかつ見てもらうためのハッシュタグですからね。例外として、「ノートリミング・ノーレタッチ・リサイズのみ」をじぶんのアイデンティティとしているひとも、このハッシュタグに登場します。

 ややこしいの、例外っぽい立場をまとめます。

(5)「これはノートリミング・ノーレタッチです」。(in-or-out,過程表現派)
(6)「良い加工」と「悪い加工」がある。(相対派、あるいは教示派)
(7)デジタルもフィルムも写真はすべてが加工だ。(一義派)
(8)すべての加工は程度の問題なので、自分や顧客が満足できるかどうかだ。(in-or-out,而今派)

 ほかにもあります。

(9)加工とか無加工とか、そういう対立自体が滑稽でくだらない。(冷笑派)
(10)無加工にこだわりはないけど、加工はやりすぎないようにしている。(自粛派)
(11)写真のクオリティは1枚で、その1枚の印象が写真家についてまわる。(慎重派=私です)

 立場は無数にありますが、大きく分けるとこれぐらいでしょうか。こっそり私の立場も差し込んでおきました。

 撮る側ではなく被写体側のレイヤーさんからは、「写真はカメラさんのものだから絶対に加工しない」とか、「キャラへの冒涜になるし、原作ファンへの礼儀として重加工すべき」とか、いろいろな立場を聞きます。

 余談ですが、フランスでは、モデルの過剰なダイエットによって若い子の健康被害となってしまったため、やせすぎたモデルの起用を禁止する法案ができました。それにあわせてGetty社が、モデル写真をレタッチした場合に「photographie retouchée」と明記するようになりました。ハリウッドやセレブたちのあいだでも、過剰な加工はイメージダウンという風潮ができつつあります。

 なんにせよ、禁止令が出るほどアグレッシブに加工できるのは、(モデルの競争や制作側のサービス精神もありますが)おそらく「photograph」ということばのおかげでしょう。そこにはもとより真実性の追求などないわけです。つまり、フォトグラフということばには、〈写真〉という写実的なニュアンスがありません。写られたもの・写されたものは、写りと一致していなくていいわけです。

 1枚ごとに決定的瞬間があるように、1枚ごとに決定的写りがあります。きっと、ほとんどのひとは、それを探しているのではないかと感じます。決定的な写りというものが、どこかにあるはずで、それはあるひとにとって「真実」の先あったり、あるひとにとって「見てくれるひとの感動」の先にあるのかもしれません。

 『お前のは写真じゃなくて加工画像だ』とか、『お前のは画がダレていて写真とは呼べない』とか、〈写真〉を奪い合うのもいいですが、写真という名前の奴隷にならないでほしいと願います。

 名前の影響力は偉大です。「フルサイズ」という名前のおかげで、すごく満たされているように思い込んでしまいます。「望遠レンズ」という名前があるから、あたかも「標準レンズ」が近いのかと思ってしまって、中途半端な距離感になってしまうことがあります。

 もっと例をあげれば、「純文学」という名前だから最高なのかと言えばそうではありませんし、「保護者」という名前だからといって保護してくれているかどうかはわかりません。「コンビニ」という名前でも、望むものなんでも置いてあるわけではありません。

 名前の奴隷になってしまうと、どうしてもその名前をじぶんだけの主人にしたくなります。「じぶんの撮っているものが〈写真〉だ」と信じたくなります。リアリズム、プロヴォーク、コンテンポラリー、無加工、ひとにも写真にも考えにも、いろいろあります。

 だれかにとってちょうどいいものが、ほかのひとにはちょうどよくないことだってあります。重加工がちょうどよければ、冷笑がちょうどいいひともいます。

 そのなかで、最後に私がつけたしておきたいのは、たった1枚が写真家の印象(あるいは被写体になったモデルさん・風景・モノなどの印象)を決めてしまうことがあるということです。その印象は、一生ついてまわります。

 その1枚の印象を拭い去ろうと思って、ほかに撮った1,000枚の写真を見せても、それはもう手遅れなのです。

 コンプレックスだと思ってモデルさんの足をのばす加工をしたら、欠点を指摘されたみたいで傷ついたとかほかのひとに掲示板で「写真で見るよりブス」と言われたなんてこともあります。見るひとを幸せにしたいと思って彩度とコントラストを上限まで鮮やかに調整して、それを見て感動したひとが実際に現地に訪れてフツーで超がっかり、なんてこともあります。

 それは極端な例ですが、加工だろうと無加工だろうと、リアリズムだろうとコンポラだろうと、あらゆる写真は、一生ついてまわる印象と隣り合わせだということを主張したいです。「慎重派」の意見でした。


画像:Callie Morgan