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 評論家のあいだでも、作家のあいだでも、コンテンツ消費者のあいだでも、「リアリティ」という概念が流通していると思います。リアリティがあるとか、リアリティがないとか、リアリティが足りないとか、リアリティを持たせるとか、リアルとリアリティは違うとか、そういう文脈に投げ込まれるものです。

 作品のリアリティ論になると、かならず喧嘩になります。それは、たぶん、リアリティという要件に内容がないのにそれぞれの現実感をぶつけあうからです。

 「リアリティ」ということばの容器自体には、なにも入っていないと私は思っています。リアリティを定義することはできず、「~ではない」というやりかたでしか表現できないはずです。

 たとえば、あまりわかりやすい例ではありませんが、NPOやNGOは「非営利」とか「非政府」といった否定形でしか表現できません。なので、NPOってなんなの、という話になったときに、どうしても「よくわからない(はっきりしない)」という印象になってしまいます。

 がんばって似たような例を列挙しますが、「ニート(Not in Education, Employment or Training)」も否定形の表現です。ボーヴォワールは『第二の性』のなかで、歴史のなかで「女性」は「もうひとつの性(=正常ではない男)」としか定義されてこなかったと主張しました。これもそうです。ハントケが考えていた”geglückten Tag”(成功した日)というのも、〈「今日は~~という日だった」と言えない日〉のことでしかありません。

 もっと身近なところでは「安全=危険ではない」という表現になります。「晴れ=曇りでも雨でもない天気」という表現になるでしょうか。

 私にとって「リアリティ」ということばは、そういった「よくわからない(否定形でしか定義できない)」ものです。

 それは欠如態というわけではありません。むしろ「美」とか「幸福」とか「神」とか「真理」のような、AはBである式ではとうてい定義できないものです。

 もっとマイルドに言えば、歌詞の「ラララ」でしか表現できない気持ちのようなものです。「嬉しい」とか「楽しい」とかでは言い尽くすことのできない心の機微のようなもの。つまり、リアリティというのはラララです。……こんな説明で、わかるでしょうか。

 まとめると、リアリティ論が揉め事になるのは、定義できないものだからです。

 それでもたしかに「リアリティ」というものを感じることはあります。「神」を感じているひとがいるのとおんなじように、「リアリティ」というものを把握することがあります。

 それについて述べてゆきましょう。

 まず、フィクション世界をつくる作家というのは、小説家にせよ、漫画家にせよ、脚本家にせよ、漫才師にせよ、「フィクション」の要素を取捨選択します。いちばんわかりやすいのは、主人公や登場人物を「人間」にするか「動物」にするかです。

 絵本や児童書、マンガでは「動物」を選択することが多いのではないでしょうか。私のおすすめは、『ブッタとシッタカブッタ』『猫ピッチャー』『吾輩は猫である』です。動物を選ぶほうがフィクションらしくなります。逆に「ロボット」「人造人間」などを選ぶのもフィクショナルかなと感じます(ぜんぶ私の感覚ですが)。

 その他にもいろいろあります。たとえば、時代設定は「20XX年」とかフィクショナルです。時代小説・時代劇もフィクショナルです。

 また、親の不在もフィクションあるあるです。「親が海外出張で家にいない普通の男子高校生」はラノベ的なフィクション選択です。『ハヤテのごとく!』におけるハヤテの生活にも「親(という概念)」がいません。逆に『ドラえもん』は親をガッツリ登場させる選択をしているわけです。親を登場させることで、「20世紀(21世紀)の猫型ロボット」の世界観とバランスがとれています。もし『ドラえもん』の世界で親が(海外出張などで)不在になっていたら、ドラえもんがのび太の保護者になってしまい、のび太サイドを排他してしまい、アドベンチャーな要素は減ってしまったでしょう。

 このような要素(の取捨選択)が大小あります。大量にあります。フィクションのほうに振るか、ノンフィクションのほうに振るか、それを選ばされているわけです。

 わかりやすく言えば、「俺の考えた最強のフィクション」というのは、「2XXX年に、ひとつの宇宙空間と化した地球内部で、人工知能を搭載されたキメラ幽霊突然変異でひとつの惑星となり、惑星の視点から埋め込まれた過去の記憶の謎を探ることとなる。惑星探偵として8,000年も活動していたが、手がかりとなるのは一匹の赤いツチノコだけである。そんなある日、とあるきっかけから未来と過去を行き来するようになり、とある時間軸で〈傷〉を負った少女と出会い、その子の〈滅亡〉がすべての世界の破壊へとつながっている事実を知ってしまい、剣と魔法を使って〈敵〉を倒す条件を満たすことができず、世界はディストピアとなる」みたいな感じです。

 常識を逸脱すればするほど、フィクションは増します。ただ、だれも「俺の考えた最強のフィクション」はもとめていないんですね。ほとんどのコンテンツ消費者というのは、ほどほどのフィクションを求めていると言えるでしょう。「この先どうなるかわからない」を真に受けてはいけません。「この先をどうなるかわからない(けれど、だいたい私の知っている展開のどれかに落ち着いてほしい)」と思っているのです。

 美形の男女がそれっぽい恋愛をして、ひょんなことからちょっとはあり得そうな事件に巻き込まれ、この先どうなるかわからないほど不運と幸運がちょうどよく繰り返され、最終的におたがいの絆を確認したり、どちらかが死んで愛を心のなかで実感したり、そういう感じになれば充分なのです。

 リアリティというのは、訳語を真に受けた「現実感」のことではなく、むしろ「ありえそうな選択群から一度だけ逸脱すること」なのです。フィクションの要素を何度も否定することなのです(作品の尺や舞台の大きさによっては、リアリティをモジュール化して、二度・三度ほど逸脱することもあります)。

 たとえば、『ドラえもん』のリアリティは、現代日本で、現代日本にありそうな町で、現代日本にありそうな学校で、現代日本にありそうな家で、現代日本にありそうな暮らしで、現代日本にありそうな友だちで、そこに「未来からタイムリープしてきた動物型のロボット」が入ってくるところにあります。

 『NARUTO』のリアリティは、あの世界にありそうな学校、あの世界にありそうな同級生、あの世界にありそうな先生、あの世界にありそうな階級、あの世界にありそうないざこざ(裏切りなど)、あの世界にありそうな悪者、あの世界にありそうな精神性(精神論)、だけどそれの世界が「忍者の村」というとこにあるでしょう。

 よく「リアルとリアリティはちがう」と言われるのは、この部分だと思います。このリアリティをパターン化したのが「ジャンル」という概念です。ジャンルの説明は長くなるので今度やりましょう。

 じぶんのフィクション作品にリアリティを求めるとき、頭ごなしにリアリティを求めていては迷宮入りします。

 私は、むしろ、フィクションを求めるからこそリアリティが把握できると主張したいです。そしてフィクション要素を何度も何度も捨てながら、大事なところでフィクションに全振りすべきなんだ、と言いたいです。

 まとめになりますが、リアリティについての議論はむずかしいです。定義自体ができません。「あれのことじゃない」「これのことじゃない」という言いかたが精一杯です。これがリアリティだ、と指差してやることができません。

 だけど、リアリティは宿ります。スピリチュアルな言いかたで申し訳ないのですが、取捨選択に宿ります。フィクションを選ばなかった要素と、フィクションを選んだ要素の、そのちょうどあいだにあるのではないかと私は思います。

 それは言い換えれば「バランス」です。フィクションとノンフィクションが相互排除をした隙間で両者を支えているバランスなのではないか、という気がしております。

 うまく言語化できなかったので、また数ヶ月したら書き直すと思います。


画像:Ben White