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 よく「描写しろ」と言われます。ヤングアダルト・ライトノベルの新人賞の総評を見ていると、「そもそも描写がない」などと言われている始末です。

 そこで気をとりなおしてガリガリ描写して提出すると、今度は「過剰描写だ」とリジェクトされるでしょう。改めて絞ったバージョンを見せれば、「これでは説明文だ」となるわけです。

 はあ――――?(´;ω;`) という憤りを禁じえませんよね。

 ここでは「そもそも描写ってなんなのか」に焦点を当ててゆきたいと思います。風景描写、行動描写、情景描写、いろいろな種類があり、いろいろな書きかたがあります。その基礎的な話です。

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なぜだれも「描写」を教えてくれないのか

 インターネットの海に、これだけ「小説作法の伝授サイト」が溢れかえっている時代だというのに、「描写ってなに?」を伝授してくれるものはありません(※私が観測できていないだけですが)。

 もちろん「これが描写と説明文のちがいです」と解説してくれているひとたちもたくさんおります。「文芸とライトノベルの描写のちがい」などという考察もあります。

 それらを読んで、理解して、じぶんの原稿に落としこんで、自信作や勝負作をコンテストに出します。なのになぜか総評には「描写がない/描写ができていない/描写になっていない/説明になっている/描写が過食気味だった」と書かれるわけです。

 ほとんど全員が〈描写〉ということばをよくわからないままつかっているのです。

描写は単なる機能である

 まずわかるべきことは、〈描写〉なんて特別なもんじゃない、ということです。つまり「みんなから”BYOSYA”とか呼ばれているすげえやつ」という意識を消し去ることです。完全に消し去るのです。そうでなければ理解が遅れます。

 ちょっとドライな言いかたになるかもしれませんが、描写というのは小説のひとつの機能です。扇風機についている「強」とか「首ふり」です。むかしからついている機能で、たいしたもんじゃありません。

 ひとつの機能ということは、それは小説のためにあるものです。

 わかりやすく言い換えれば、作家の目的のため/読者の目的のためにある役割です。描写を書くということは、じぶんの目的のためになにかを書くことですし、それと同時に読者の目的のためになにかを書くことを意味します。

描写はプライベートな要素

 ここまでは抽象的に説明してまいりましたが、これ以降はどうがんばっても個人個人の話になります。つまり、ひとつの小説の作者と読者の目的というものを、どのように理解して書くか、という話です。

 だから描写を教えることはできないのです。

 その作品で、そのシーンで、その登場人物で、そのセリフで、そのフレーズで、そのワードで、その読点で、なにを書きたいのか。あるいは、読者はその作品で、そのシーンで、その登場人物で、そのセリフでなにがしたいのか。なにを受けとりたいのか。なにを感じたいのか。なにをどうしたいのか。

 これらの問いが辿り着く先に、そのひとの描写があります。

 とは言いましても、そんなの完全にわかるわけではありません。そればっかり考えているわけにもいきません。だからこそ、描写というのはいつも不完全な存在なのです。描写の完全性をあきらめることも大事かもしれません。

 そういう仏教もどきな話がしたかったのではありません。

 いつだって「じぶんの描写の現在」を表現するしかありません。そのために、なにをしたいのか答えながら書くしかありません。あるいは「答えのようなもの/結論めいたもの」を書くしかありえません――ということが言いたかったわけです。

虚構のための描写

 私にとって小説の目的というのは、いわゆる「虚構の世界」です。かっこつけずに言えば「フィクション」、否定の形で記せば「現実じゃない話」になります。

 ですから、私の描写というのは、フィクションのための描写なのです。その作品がフィクションであるための描写です。逆に言えば、その描写によってフィクション性が生まれるということです。

 フィクションとかフィクション性というのはなんですか、ということになります。この問いこそ、私にとって本質的です。結論的です。決定的です。宿命的です。フィクションってなんだ。なんだなんだなんだ、なんなんだ。おいおいわかんねえぞ、というのが現状なのですが、せっかくですので今回はもうすこしがんばります。

 私にとってフィクションというのは、現実的な問題に対処するためのバッファーです。

 つまり、現実で耐えられないことがあったとき「その問題(の対処)を綺麗な形のまま先送りする」ための道具です。幸/不幸のベクトルではなく、ベクトル量がおおすぎたとき、しあわせすぎるとか、不幸すぎるとか、とにかくじぶんの許容範囲・キャパシティを超えていることがあったとき、それを「よいしょ――」と未来に流し送るものだと思っております。

 映画をみる、演劇をみる、アニメをみる、テレビをみる、絵本をよむ、小説をよむ――そうやってフィクションにふれることで、「ちょっと心が間に合っていないこと」をうまく先送りできるのです。

 ショートショートならタバコ一服ほど、長編は大型連休~バカンスぐらい。それが私のフィクション的な先送り(バッファー)のイメージです。

ウソをホントにするための描写

 ふたたび本題に戻ります。私が描写を書くとすれば、その作品をフィクションにするために特化した文章ということです。プロットを進めるための文章ではなく、結論を書くための文章ではありません。私の作品のフィクション性だけを映し出した特殊な鏡を設置することです。

 そのためでしょうか、描写には字数がかかります。どうしても文章量が必要です。一行じゃあ足らないのです。逆に言えば、だからこそ小説を書くわけですし、長編を書くわけです。そうでなければならないからです。

 私の作品が私や読者にとってフィクションであるためには、現実の耐えられないことを先送りできるようになるためには、「そこに書かれている世界がほんとうにあって、そこで生きているひとがいる」と思わせるだけのなにかがなければなりません

 回りくどいですから、一発で言いましょう。――そこに登場している人物たちの生活がそこにあると思えるようなことをひたすら専門的に書いてゆく部分が、私にとっての描写となります。

 こうした結論/定義は、ひとによって、作品によって、読者によって、無数に存在しております。だからここで「あなたにとっても描写というものはそういうものです」と押しつけることはできません。参考にするのはもちろん構いませんが、私の結論はあなたの結論ではありえないのです(お気をつけください……!!)

 プロットを進めるための地の文も大事です。そうしなければストーリーが展開してゆかないので。設定を明示するための地の文や会話文も大切です。そうしなければ伝わらないおもしろさもあるので。字数を稼ぐための無駄なシーンも、まあやむをえないこともあるでしょう。

名言は描写だからこそ名言である

 ただそれだけではなく、それらから外れた、もっと専門的な目的をもった文章が描写です。あなたの小説を小説にするための文章。

 「春の木漏れ日が俺の青春の一端を脅かし、季節の心臓は俺たちのために平等にとくとくと脈を打った」みたいな文章が描写ではありません。こういう取ってつけたような文章が描写だと説明している「小説作法の伝授サイト」が数多くありますが、なんの目的もなければただのお飾りや気取りに終わります。

 もちろん「お約束」のために入れる描写もありますが、そのお約束的な描写に「描写」の概念を代表させてはいけないと思います。

 逆に、ちょっと見下されがちな「名言」を引き合いに出してみましょう。

 漫画・小説の名言サイトをのぞいてみると、「これが名言か……?」と首を傾げたくなるものばかり登録されております。それは登録者にセンスがないからではなく、むしろそのセリフがその作品にとって描写だった、という証だと言えるでしょう。そのセリフがあったからこそ、その小説(漫画)が小説(漫画)であったのだと思います。

 まず、名言っぽい例として、ドストエフスキーさん。『地下室の手記』の名言は、とてもドストエフスキーさんらしく、『地下室の手記』らしいものです。引用しますね。

「……ぼくに必要なのは安らかな境地なんだ。そうとも、人から邪魔されずにいられるためなら、ぼくはいますぐに全世界を一カペーカで売りとばしたっていいと思っている。世界が破滅するのと、このぼくが茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって?  聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ。(……)。
※「カペーカ」(копейка)はロシアの貨幣単位です。1/100ルーブル。

 これと似たような文章を、私の作品でやったところで名言になりません。むしろ邪魔くさいですね。ドストエフスキーさんの表現したい人物像があって、それがあるからこそこのセリフは生きている/生きてくると言えます。

 次に「名言か……?」の例をあげましょう。

 尾田栄一郎さんの『ONE PIECE』には、「愛してくれて ………ありがとう!!!」という名言があります。これだけじゃなんのこっちゃという感じですが、読めば名言だとわかると思います。こういった描写があるから、『ワンピース』は『ワンピース』になるのです。

 「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」も有名ですが、これだけだとただの正論にしか見えません。私の作品にも、あなたの作品にもつかえません。井上雄彦さんの『SLAM DUNK』だから名言になる、描写になるわけです。

 べつに私は名言を考えて書け、と言っているわけではありません。むしろ「こういうかっこいいセリフを書きたい」とイメージして、無理やりそれを作品のどこかに入れると、そこだけ浮きます。おそらく読者は気づきます。私の作品に無理やり『SLAM DUNK』の名言(=描写)を入れるのは、扇風機に「おサイフ機能」をつけるようなものです。

 繰り返しますが、描写を教えることはできません。

 描写を教えてくれるひとがいるとしたら、めちゃくちゃすごいひとか、よくわかっていないひとのどちらかです。出来上がった作品について「この部分は描写かどうか」を考えることはある程度ならできそうです。浮いているところは浮きますし、出来上がったあとなら書きたかったことがすこしは明確になっていますから。

 冒頭の「そもそも描写がない」というのは、とても痛烈なコメントです。噛み砕いて言えば、「おまえたちの書いた小説は、悪いが小説にさえなっていない」という意味にもなります。そりゃあ落選するでしょう、小説にさえなっていないものを送りつけているわけですから。

 書きたい設定だけでは小説にならないようです。書きたいプロットだけでは小説にならないようです。書きたいシーンだけでは小説にならないようです。書きたいキャラクターだけでは小説にならないようです。書きたいセリフだけでは小説にならないようです。――それらすべてを「小説」のなかに収めてくれるのが《描写》だと言えるでしょう。

 


初出:「描写しろと言われても困るひとのために」(カクヨム)
画像:Josh Howard