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 「小説には会話が必要で、なるべくうまく書いてください」というのは共通事項となっております。うまくというのは、キャラが立つようにとか、設定がわかるようにとか、プロットが進むようにとか、ギャグで飽きさせないようにとか、そういうことですけれど、その表面的な機能だけで済ませるものではないと感じます。

 また、「会話が必要だ」という価値観をうたがってみることも大事だと思います。日記形式とか、辞書形式とか、手紙形式とか、ほかにもいろいろあります。ですが、ここでは「小説には会話が必要だ」というところから考え始めるつもりです。

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会話と作者と読者

 小説には会話があります。プラトンだって、ドストエフスキーだって、セルバンテスだって、長い会話を小説内に放り込んでいるわけです。

 なぜ小説には会話があるのでしょうか。なぜ会話が「良い」と良作な文学作品になるのでしょうか。

 そもそも小説(の地の文)というのは、作者と読者をつなぐひとつの道すじだといえます。作者が読者に書く(作者→読者)ということです。

 しかし、これだと説教やメールと変わらないので、作者は身を隠して不在(非人称)になります。代わりに主人公の「ぼく」とか「私」が語り手となったり、三人称の神や背後霊が語り手になったりしてくれるのです。

 それでもやはり「これを作者が書いている」という残像や残響のようなものがどこかに香るものです。なので、さらに、会話文をつくります。

 例文を出します。

田中「なあ、佐藤」
佐藤「なんだよいきなり、練習中だぞ」
田中「すまん。俺、部活辞めようと思う」
佐藤「……そういうのはあとにしてくれ」

 こういう会話文があったとして、田中も佐藤も「逢坂」ではありません。もちろん「ドストエフスキー」でもありません。

 ここが重要です。

 作中において、田中と佐藤の会話は、まぎれもなく田中と佐藤のものです。

 会話をつくるというのは、作者でも読者でもないひとに喋らせる、ということです。私はそれを「世間の形成」と勝手に呼んでおります。世間ということばがダサいなら、「世界の構築」でもよいとおもいます。おなじようなものです。

 とにかく、「それが始まったらあっという間に作者が消える時間帯」を生み出せるのが会話文という機能なのです。

私たちが会話するとき、会話する意味。

 作者が消えるのはわかったけれど、それがなぜ重要なのかというところを説明いたします――といっても、私よりはるかにわかりやすく平田ひらたオリザ先生(『演劇入門』)が説明してくださっているので引用です。

登場人物を決めるうえで重要なのは、その人物構成がいかにバラエティに富んでいるかだ。これは、各登場人物が持っている情報量の差にかかっている。情報量の差を、さまざまな人間関係の網の目のなかに仕込んでおくことが、あとで戯曲を書く際に力となる。人は、お互いがすでに知っている事柄については話さない。話をするのは、お互いがお互いの情報を交換するためであり、そこから観客にとっても物語を理解するための有効な情報が生まれてくる。情報量に差がなければ、情報の交換は行われない。いま舞台に立っている登場人物が誰も情報を持っていなければ、誰もその事柄について語ることはできない。

 平田さんは、たとえば火事とか法事とか引っ越し、というふうに例示します。私だったらサウナです。うざがられているかもしれませんが、なぜかしゃべってしまいます。

 あるいは接客。いわゆる「お店系」の小説で使いますね。

 あるいは陰口。どのジャンルでも使えます。

 先ほどの「世間」というのは、「世論」によって支えられております。世論というのは、みんながおなじレベルの情報をもつこと、それを目指すことです。

 陰口とか噂話というのは、みんながおなじことを知っておくべきだ、という均質化のイデオロギーを必要とします。これが小説における会話の原動力(のひとつ)となります。

 たとえば、谷川流さん『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003)では、ハルヒのいないところで、超能力者の小泉、ヒューマノイドインターフェースの長門、未来人の朝比奈が「ハルヒのこと」を噂するわけです。もちろん主人公のキョンに対して。

 それは、三人が三人とも「キョンは私(たち)とおなじ情報を持つべきだ」という信念で動いているからです。情報の差の問題です。

 そうしなければ、世論と世間が作れないのです。必然的にキョンと三人の会話が進んでゆき、ハルヒがまだなにもしていないのに、ハルヒという〈噂される人物〉の存在が際立ってゆきます。会話によって情報が動き、それによってキャラクターが強調されてゆきます。

 それを読者目線で言えば、読者は「作者でも読者でもないひとたち」がしている噂を読みながら、その世界(世間)のことを知ってゆくのです。そして知ったことによって信じるのです。「涼宮ハルヒによって世界のパワーバランスが成り立っている」なんて突飛な話を、読者はいつの間にか信じてしまうのです。

 たとえばこれが、ちょっとした地の文で、

この世界のパワーバランスは、涼宮ハルヒによって成り立っている。

と描写してあったとしても、「ふうん、そういう設定ね」で終わってしまうのです。

 蛇足かもしれませんが「設定がおもしろかった」という感想は、設定がおもしろかっただけで、その世界(世間)を信じるほどのめりこんだわけではない、ということでもあります。

 私にとって『涼宮ハルヒ』の世界(世間)が、特に重要な会話なしに、だらだらと「あの設定で」進んだとして、べつに好きな作品にならなかったと確信します。

 もちろん作品自体はメタフィクショナルで面白いのですが、面白い設定の面白い狂言回しが見れただけで終わって、十何年たって、こうして引き合いにしたいとは思わなかったでしょう。

 あの作品は――もちろんあの作品だけではなく良作と評価される作品は――、会話によって進んでゆきます。その会話に名言は必要ありませんし、哲学的な要素は必要ありません。詩的でなくてもいいんです。キマってなくてもいいんです。

 ただ、それがなければただの「設定」で終わってしまうような会話、というものを盛りこむべきなのです。

会話が書けていない作品の憂鬱

 かつて吉本隆明さんが「小説を書こうとしてみんな詩になっている(小説が途中で崩壊している)」ということを仰っておりました――文献は忘れました……すみません。

 「小説が詩になって崩壊する」というのがずっとわからなかったのですが、このあいだ雑誌(『SOUND DESIGNER 2017年7月号』)を読んでいるときにすこし解釈できそうなものを見つけたので、その引用から話をリスタートいたします。

――本作のテーマを教えてください。
春:去年、1stミニアルバムを作った後に、自分が空っぽであることと向き合わなくてはならない気持ちになって。そこから問題提起が始まって、空っぽだけど、飾り立てるんじゃなくて、空っぽだと言うことを見つめた結果、「私は神様にはなれないけど、1つの体と精神を持っていて、それ以上でもそれ以下でもない」っていうことを「いのちになって」という曲で言っているんです。悲しみ受け入れて肯定しよう、と。「キミ達も1人1人そうだから、私がそれをここで証明するために歌うから大丈夫だよ」っていうのが今作の大枠のテーマです。そうやって、みんなを愛したいなと。
(…)
――春さんは今後も、ポエトリーラッパーとしてのスタイルを貫いていくわけですよね。
春:歌は「絶対歌わない」って決めているんです。なので、このスタイルしかやらないです。このスタイルでライブをやっていると「演説みたいだな」と、自分で思うことが多いんですよ。一応音楽にはなっていますけど、自分でも形態としては演説に似ているなって感じています。

 詩は朗読にむいており、ずっと「詩のあの形式はなにかに似ている」ともやもや思ってきました。なるほど、ポエトリーラップは演説みたいだ、とする春ねむりさんの思想に触れて、ようやく確信的なものを得たような気がします。

 会話が書けていない、という抽象的な言いかたで指摘されていた部分は、「会話の内容が単純におもんない」わけではなく、小説の、いつだって演説に向かってゆく崩壊性をとめるような会話が作れなかった、ということかもしれません。

 地の文は、すぐに詩になり、すぐに演説になります。そうでなければプロットの司会です。それ自体が即座に不正義というわけではないと思いますが、その崩壊性にのみこまれた文章では小説にならない、といえると思います。

 会話を書くということは、思いついたセリフを書くことではありません――。そんなの当たり前だとおっしゃるかもしれませんが、私はいまだに思いついたセリフを書いて、それが浮いて、邪魔して、推敲のエネルギーを奪ってしまいます。

 その作品の世界(世間)につながるような会話を、その作品の世論として書けるかどうか、ということをいつも考えたいです、自戒ですが……苦笑

余談

 ここまでくれば、「なぜキャラクターをしっかり書き分けるのか」という問いも、「なぜ小説は読み飛ばせないのか」という問いも、「異世界を書こうとするとなぜ会話文ばかりの小説(下半分がメモ帳の小説)になってゆくのか」という問いも、あらためて答えるまでもないのではないか、と存じます。

 もちろんそう思い込むのは傲慢であり、じぶんの理論への過信でもありますが、いまのところ私はそう思っております。中間的な結論にひとまず満足し、暫定的な回答にいっとき落着したということです。

 すべての小説、すべてのシーン、すべての会話が、すべてこの理屈だ、ということは言いません。すぐに反証が出せます――『ゴドーを待ちながら』。

 それでも、この「世論による作品世界の構築=世間の形成」としての会話機能というアイデアが、みなさんの創作のどこかに益することを願っております。


初出:「会話が書けてない」とはどういうことか(カクヨム)
画像:Matheus Ferrero