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 ずるい生き方を覚えることに、憤りや切なさ、虚しさ、悲しさなどを感じるひとがいます。誠実に生きたい。綺麗に(=汚点なく)生きたい。そういう気持ちがあるのかもしれません。

 じぶんの「ずるさ」を感じるようになると、自尊心が削られてゆきます。誠実に生きられないじぶんを減点したくなる自罰的な思考回路です。

 ただ、ずるさというのは、ほとんどのひとにとって必然なんです。ごくまれにずるさを要さないかたもいますが、ほぼ例外なしでずるさを磨かねばならないのです。

 ここには半透明なダブルバインド(相反する二つの掟)があると思います。ひとつは「誠実に生きなければならない」。もうひとつは「自立しなければならない」です。

 まず、あなたのまわりに「誠実な生き方かつ自立的な生き方」ができているひとを思い浮かべてみてください。

 おそらくいたとしても一人ぐらいでしょうか。どちらもできていると思っても、実は「ずるさを他人に見せないだけ」だったり、「親の資金で暮らしているひと」だったり、「恋人に介護させているひと」だったりします。

 ほとんどが、ふたを開けてみれば、不完全な誠実さ・不完全な自立のはずです。要観察です。

 私はときどき「聖人君主みたいなひと」という第一印象(第一期印象)を与えるようですが、ひとのことを利用するし、裏切るし、踏み台にするし、やり返すし、恩を忘れますし、嘘をつきますし、見下しますし、必要があれば奪い取ります。一期目は聖人君主のように見せていますが、二期目以降はそういう人間だとバレます。

 つまり、誠実であることと自立であることは、なかなか高度な両立しかありえないということです。フツーな生きかたをしているひとでは、まず不可能ではないかということが言いたいです。「誠実×自立」は、それぐらいやばいことだと思います。

 では、なぜ両立しないのか。

 それは、自立すればするほどだれにも守られなくなるからだと思います。

 親に依存しているころは、親が守ってくれるから、そのぶん正直に生きることができます。やりたいことに夢中になって、100%を出し切って、疲れて眠ってしまってもパパがおんぶして帰ってくれるものです。

 誠実に/正直に生きることは、偏ったパワー配分を要します。集中したいことに集中リソースをすべて割けるのは、とても恵まれた環境でしょう。

 ほとんどのひとにとって、庇護の獲得量は目減りしてゆきます。守られなくなります。それが「自立」というものです。よちよち歩きで歓声が上がったころとは、もうちがうということです。

 守られなくなると、集中というものができなくなります。

 いろいろな要件を適度にこなすことが求められ、効率的なパワー配分を身につけ、ある意味ではすべてが中途半端に進み、権限があるひとにお菓子などの賄賂を出して融通を頼み込み、保険やバッファの獲得を優先するようになります。

 それは〈守られていないひとの生きかたとして誠実〉ではありますが、世間の価値観が求める真正な誠実さとは異なります。

 正直者が馬鹿を見るのではなく、自立と誠実を無理やり両立させようとするひとが自滅する、という話ではないかと思うときがあります。

 自立は、それほど善いものではありません。「自立即善」で考えているならば、どうかストップをかけてもらいたいです。

 誠実と自立の塩梅がわからないと、自尊心を思い切り落としかねません。「ずるい大人になってしまった」というのは、青春の大事な気分ですが、そればかりでは埒があきません。

 『これは経費では落ちません』に、「だいたいの社員は、入社すると少しずつずるくなっていき、三年か四年でその人なりの要領が完成する」という箇所があります。これはすごくわかります。そして、わたしは、それでいいんじゃないかと思っています。

 誠実になんて生きられないよね、かつ、自立なんてできないよね、というアンチダブルバインドな感覚でバランスを取れればいいです。

 断定的に書き進めてきましたが、正解となるものはありません。それこそ理想的なライフスタイルは千差万別ですから。

 そのなかで自尊心が落ちているようであれば、「誠実」と「自立」という観点でバランスの再定義を行ってみてはいかが、という提案でした。


画像:Todd Quackenbush