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 1対1だと話せるのに、複数人での会話だと途端にしゃべれなくなって困っているひとがいます。これは私の経験則に近いものですが、そこには自己解消すべきことがあります。

 「対一人」の会話と「対複数人」の会話が大きく異なっていると思い込んでいるのではないでしょうか。

 この会話場面のちがいは、もちろん人数です。人数ですが、人数によって会話の本質が変わるわけではありません。会話というのは、ゆるやかに忙しく、ゆるやかに自分勝手であれば、それだけで成立します――人数が何人であっても。この部分を概念整理してゆきます。

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1対1ではできている、という思い込み

 全員とは言いませんが、複数人としゃべれないひとは「1対1では話せるのに」という言い訳をセッティングしがちです。

 ですが、その自己評価はどこまでほんとうでしょうか。

 1対1の会話は、かなり忙しいです。ゆっくり話しているように思えても、相手の関心が(建前上)すべてじぶんにくるので、結構いろいろ考えるもの。そのため1対1の会話では、リアルタイム自己評価が遅れます。会話がダメだった日には「一人反省会」を、後で、することが多いかと思います。それぐらい忙しくて、暇がありません。

 1対1の会話ができている、という自己評価をしやすいのは、その場で気づけないことがあまりに多いからです。「できてる」という前提をやめて、どっちだってできていやしないし、できなくても会話は会話だ、ぐらいの発想に切り替えるとよいかもしれません。

そもそもなぜ複数での会話は楽しくないのか

 複数同時会話では、進行役以外みんなです。ここに問題があります。

 頭の回転が速いひとは、あまりの要領の悪さに機嫌を損ねるでしょう。反省するタイプのひとは、リアルタイムで反省可能です(会話ができていないじぶんを分析して落ち込みます)。俯瞰するタイプのひとは、しごく順当に「くだらない会話してるな」と見下してしまいます。じぶんの評判を重要視するひとは、「対四人用の説明」みたいなものを即興でこねくりまわしているので会話を楽しむ余裕がありません。主導権を握りたいのに握れないひとは、無理をして会話を乱すか、ただただイライラ我慢です。個人的に話したいのに複数人会話に妥協しているひとも、とにかく乱します。ひとの顔色をうかがうひとは、だれかの退屈さや苛立ちに過敏になって不安になります。

 あくまで雑な分類によりますが、楽しくなくなりやすい要素が揃っていると言えますね。

暇にならない、暇そうにしない、暇にさせない

 岩本武範さんが書いた『なぜ僕は、4人以上の場になると途端に会話が苦手になるのか』という本の表紙には、「あ~、帰りてぇ。」というキャッチコピーのようなものが載っています。

 ここでハッキリ言わせてください。私の偏見も入っていますが、「帰りたい」と思うのは暇だからです。もちろんその暇にも、疎外的な暇、退屈的な暇、無能的な暇、現実逃避的な暇などいろいろありますが、ここではあえておおざっぱに「暇」とします。

 複数人で会話するときの三原則は、暇にならないこと、暇そうにしないこと、暇にさせないことです。もちろんこれをパーフェクトに守るのはむずかしいですが、この意識をもって挑むだけですこしちがいます。

ふたたび・思い込みについて

 あらためて「1対1ならできる」という思い込みを解きましょう。

 乱暴に言ってしまえば、暇なじぶんに対処できていないか(おそらく多数)、暇だから余計なことを考えたり顔色みたりで思考が重くなっているだけなんですね(おそらく少数)。

 私の暫定解ですが、前者は「会話の忙しさを意識する」こと、後者は「もうすこし利己的になること(虚栄心を抑えて自分勝手になること)」だと思います。

フィクショナルな和解

 「会話の忙しさ」というのは、フィクショナルな和解(演劇的な和解)です。誤解されそうなところ、あるいはまちがって覚えていたこと、知らなかったこと、気づいてなかったこと、互いの努力不足などを、ゆるやかなニュアンスで、虚構上で、和解することに忙しいものです。いわゆる「アイスブレーク」もそのうちのひとつですし、ジョークなどもウソの和解のために行います。

 「そういうことだったのね」を見つけようとしたり、「あれはほんとはこういうことなんだよね」を繰り出そうとしたり、それはフィクショナルでいいのです。むしろガチだと引かれるので、さっぱりとした虚構のテンションで和解しようとすると(あまりに場違いでなければ)会話に入ってゆけます。

 難しく感じるかもしれませんが、逆に言えば「あっそ」「だからなに」「つまりこういうことでしょ」「そんなの知ってる」「別に大したことない」あたりのニュアンスを排してゆけば、自然と和解的な会話のモードを手に入れることができます。

自分勝手にやる

 相手の機嫌や顔色をはかること自体はべつにいいのですが、それにリソースを割きすぎると会話になりません。

 たとえば「1対1」の会話でも、相手が深刻そうに話しているのに、今日の晩御飯はどうしようかとか、そう言えば来週の天気調べなきゃとか、また変な客が入ってきたとか、スマホの充電大丈夫だっけとか、そういうことを考えたことがあると思います。

 相手が「今日こんなことがあってこれこれこうですごかったんだよ」みたいな話をしているのに、「へえそうなんだ、それってすごいねえ」なんて言いながら、帰りはスーパーに寄って帰ろうなんてこと、私も考えたことがあります。

 会話は完璧ではなく、むしろ不完全で、おたがいがゆるやかに自分勝手なことをしているから成り立つのです。「1対1」のときはそれが自然にできていたのに、複数になるとできなくなるひともいます。自分勝手だと思われたくない自意識とか、迷惑をかけるとか、他人の顔色とか、いろいろなものが「会話に必要な自分勝手さ」を阻みます。

無理解な進行役は不運というかお互い様

 まるで自己責任のような書きかたをしてきましたが、進行役が「使えない」ひとだとうまくいかない場合もあります。1対1のような感覚で「わかる」とあいづちしただけなのに、それを「俺にターンをよこせ」だとかんちがいして、進行役が話を急に振ってくれることもあります。これはもう、だれが悪いというよりか、災難としか言いようがありません。

 もちろんそこで「いまのはなんとなく相槌しただけなんだけど、んーでも、たしかに**って○○っぽいよな」みたいな感想を自動的に吐き出せればいいのですが、そこはなかなかむずかしいので、じぶんを責めないほうがいいところではあると思います。

(おまけ)ボブ・ディランだって困っている

 方向性は異なりますが、ボブ・ディランも困っていました。

But there’s one thing I must say. As a performer I’ve played for 50,000 people and I’ve played for 50 people and I can tell you that it is harder to play for 50 people. 50,000 people have a singular persona, not so with 50. Each person has an individual, separate identity, a world unto themselves. They can perceive things more clearly. Your honesty and how it relates to the depth of your talent is tried. The fact that the Nobel committee is so small is not lost on me.
ひとつお伝えしておきますと、私は演奏者として五万人規模の単独ライブも、五十人規模のライブもやったことがありますが、ひとつの人格として扱える五万人よりも、それぞれの人格を持っている五十人の前で演奏するほうが難しかったです。ひとりひとりが独立したアイデンティティを持ち、自分自身の世界を持ち、(五万人単位の人格よりも)ずっと明確に物ごとを認識できる。あなたの誠実さと、それがあなたの才能の深さにどれ程関係しているかが試されるのです。ノーベル委員会がとても少ない人数で運営されているという事実を、私は見落としたりしません。
――――ボブ・ディラン、ノーベル文学賞受賞スピーチ(共同通信社訳を適宜改変)

 それぞれの人格というものを想定してしまう――これは人数が増えたことで会話・自己発信が困難になる部分かもしれません。

 

 いろいろ対処して、自己解消して……果たして、そんなことしてまでして複数人での会話を楽しみたいか、というじぶんの価値観も大事だと思います。どこか居心地が悪くて困っているひとは、自己解消すべきところを見つけて、いろいろ挑戦(調整)してみてください。